経験しないと分からない
前記事の余談でも書いたのだけれど...
自分が足首にケガをしたことで、他人の足首に注目してしまいます。
特に、現在行われている北京オリンピックのフィギュアスケート。
今までにもフィギュアスケートを何度もTVで見ましたが、選手たちが余りにも滑らかに美しく演技するため、それがいかに大変なことなのかを考えたこともありませんでした。
スピードがついたまま高くスピンし、あの細いブレードのみで着氷するなんて、選手の(足)体には凄い負担がかかっている事を考えることもありませんでした。
羽生結弦選手の足首のケガ(右足関節靭帯損傷)のニュースを見ても「あらら...大変やなぁ...」としか思いませんでした。
しかし、今ならそのケガの痛みが少し分かります。
そして、そんな怪我を繰り返しながら過酷な練習を続けているアスリートを心の底から尊敬します。
人間は、きっと自分が同じ状況になってみなければ分からない。
同じ状況になったからといって、すべてが分かるわけではないし、本当の人の気持ちや痛みはその人にしか分からないのだけれど...
でも、同じ経験があるだけで人の気持ちや痛みに思いを馳せたり、寄り添うことが出来ると思います。
私が道路遊びや近所付き合いに悩んでいたころ、たくさんの方がコメントをくれました。
そして、みんなで経験や想いを共有することで「救われた」と言ってくれる人がたくさんいました。
そんな様子を見て「傷のなめ合いばかりしている」というコメントをもらったこともあるけれど、それの何が悪いか私にはいまだに分かりません。
例えば「主婦」の中にも、専業主婦・兼業主婦、子あり・子なしなどのカテゴリーがあり、「子なし」というカテゴリーの中にも、選択子なし・不妊治療中などがあります。
うちのように「一人っ子」というカテゴリーの中にも、選択一人っ子・二人目不妊、そして我が家のように「別にどうするかなんて決めていなかったけれど夫婦ともに激務で、気づいたら一人っ子でした」みたいな場合もあります。
昔は世の中のこのカテゴリー分けを「メンドクサイ」と感じていたんだけれど...最近は「人は思いを共有するためにカテゴリー分けするのかな」とも思います。
LGBTQ+なども同じで、本当は「私はゲイです」なんて言わずとも普通に恋バナできたりするのが理想だと思うけど...
でもカテゴリー分けすることで、同じ境遇や想いの人と出会う可能性が高くなって、悩みや辛さ楽しさを共有しあえるのかもしれないな、とも思います。
そして、その同じ経験をしたことや同じ悩みを共有することで、人は強く優しくなれるのかもしれません。
私もいい年になって、経験は本当に宝だなぁと思います。
そして、辛かったり痛かったりしたたくさんの経験を優しさに変えて生きていける大人でありたいな...と思っています。